2013年8月6日火曜日

リオのファベーラ②諸事情と歴史、撤去計画

ファベーラとはブラジルにおいて、スラム街や貧民街を表すことば。


ブラジルの大都市や中規模都市の郊外へ不法居住者が建てたものや、

既存の町がスラム化したファベーラがある。


夜のファベーラ





中でもリオデジャネイロのファベーラが有名で、4人に1人がファベーラに住んでいるとされている。


コンクリートやレンガで作られた家から、廃材で作られた家など様々であるが、いずれも無断で建てられている。


衛生状態は悪く、下水処理や病気に悩んでいる。


不法に建てられた家なので、住所はない。



ファベーラによっては、夜には家々に明かりがきらめいているが、これらは付近の電線からの盗電である。


都市周辺の山の斜面に建てられたファベーラも多く、大雨の後には地すべりが起き、家屋の倒壊などの被害が出る。


ファベーラの人々は、ファベーラの外で低賃金の仕事につくことが多い。

失業、ドラッグ、ギャング同士の抗争といった社会問題を抱える。


1895年から1896年にかけて政府と反乱軍の間で起こったカヌードス戦争で、政府は反乱軍鎮圧のため、元奴隷の黒人らを徴兵した。

政府が勝利したこの戦いで、任務を終えた元兵士は、当時の首都リオデジャネイロへ移住したが、政府は彼らへ住居を提供することができず、丘の上の公共の土地へ自らで家を建て、新しい街を作った。

さらに、奴隷から解放された黒人たちもファベーラへ流入し、貧民街となっていったり、

逃亡した黒人奴隷が山の斜面に村落を築いたことにより形成されているものもある。




1940年代から進められた産業化によって、都市部への人口流入は加速し、1970年代にピークを迎える。

低層住宅の立ち並ぶスラム化した地区から溢れた人々は、丘の上に不法住居の家屋を築いていった。


ファベーラはどれも異なった時期に異なった経緯で形成されているが、最終的には、貧困層の住む地域という共通点を持つに至っている。



ファベーラ撤去計画



ファヴェーラの爆発的拡大を受けて、ブラジルの政府はファヴェーラ撤去運動に乗り出した。

1940年代の「Parque Proletário」計画では、リオの貧困スラムが撤去され、住民たちは新しい公営住宅に建て変わるまでの間小屋などに仮住まいした。

しかし公営住宅は少量しか作られず、住宅改良工事のために更地になった場所に新たなファヴェーラが誕生しただけだった。

1955年、レシフェ司教でリオデジャネイロ補佐司教のエルデル・カマラは、連邦区の財政支援を受け、当時最大のファヴェーラであったプライア・ド・ピント(Praia do Pinto)に集合住宅群を建てるという計画「Cruzada São Sebastião」(聖セバスティアヌスの十字軍、セバスティアヌスはリオの守護聖人)という名の計画を立ち上げた。


この「十字軍運動」は、ファヴェーラ生活の悪徳を断ち切る意思のある者だけを新住宅に入居させ、彼らを受け入れられやすい市民とすることであった。


1970年代の軍事政権時代にも、貧者のための住宅計画という名目でファヴェーラ撤去計画は活発化した。

しかし実際に起こったことはファヴェーラの解体と、その住民がより郊外の生活基盤のない土地へと移転させられた事態であった。

ファヴェーラの跡地には安い郊外住宅ができたが、そこからファヴェーラ旧住民に配分される利益では、旧住民らが新しい住宅に入るだけの収入とはならず、この計画は破綻していった。


















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