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2014年11月24日月曜日

日本からもできる、国際社会から見放されたアーサルのシリア難民支援プロジェクト

今年、シリア難民の数は300万人を超え、周辺国などへ逃れているわけですが、最も多くのシリア難民が逃れた先は、レバノン(114万人)です。

シリア難民300万人を超える(2014年8月29日/UNHCR JANANプレスリリース)
http://www.unhcr.or.jp/html/2014/08/pr-140829.html



よく知らない人も多いかと思いますが、例えば日本でシリア難民のために募金や衣類などの寄付(冬はめちゃくちゃ寒いです)をしたとしても、レバノンへはほとんど届きません。



それは日本の支援機関の構造上難しいことなのです。




シリア難民のことを日本人が知る機会を生み出すことを、最も大きな資金を使って行い続けている組織はUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)であります。


UNHCR JAPANが、政府と連携したり、国内メディアへ働きかけたり、シンポジウムを開催したりすることによって、少しでも多くの日本人が、難民の窮状に目を向けるきっかけを創り出しているのです。


シリア難民問題を深刻なこととして捉えてもらうことを促し、募金をするというアクションを呼びかけているのです。
(実際に難民の生活は本当に深刻で、支援のために最も必要なのは、服よりも食糧よりも、お金です。)



そして、UNHCRからジャパンプラットフォームを介して、日本に拠点を持つ国際NGOへと、それぞれの団体が行うプロジェクトに対して、資金が注がれます。


これが、日本のシリア難民支援のメインストリームと言えるでしょう。



ここで想像力を働かせたいのは、300万人を超えるシリア難民が平等に支援の恩恵を受けるわけではないということです。

国際NGOのそれぞれの活動は、決まった地域で行われているわけで、日本からの支援がどうしても届かない難民の人達がいるわけです。




これはジャパンプラットフォームが個別に支援を行っているNGOの活動です。


難民の数とは関係なく、レバノンで行われているシリア難民支援は、セーブ・ザ・チルドレン・ジャパンの心理社会サポート、生計支援だけとなっています。


それぞれのプログラムは、難民にとって必要なものばかりで、素晴らしい活動であることは間違いありません。


僕にとって残念で仕方がないのは、レバノンとシリアの国境地域のアーサルに支援が届けられないことです。




今年2月にアーサルへ行き、難民の皆さんと15日間一緒に過ごしました。

もしかしたら、アーサルへ逃げてきた難民の数が一番多かった期間かもしれません。




難民を乗せた車が列をなしていて、出来上がったばかりのキャンプはすぐに満員になり、新しいキャンプを難民の皆さんと一緒に建てました。

















8月に起きた戦闘の最中、ほとんどのテントキャンプは燃やされてしまいました。




物資の配給ルートが経たれ、資金がないどころか、外を出歩くことも難しくなり、現地団体の活動もストップしました。






現地の支援団体から何度も強くお願いされ、アーサルを支援してくれる団体を探してみましたが、どうにも見つかりませんでした。

UNHCR JAPANに電話をしてみたり、セーブ・ザ・チルドレン・ジャパンへ現地の団体との連携をお願いしてみましたが、適いませんでした。



1番大きな理由は、アーサルでの支援活動が安全ではないということでした。
今年8月に戦闘が起きたことはこれからもずっと、支援を届けることのできない理由になるでしょう。



そして、レバノンの政治組織(ヒズボラ)がまた、シリア難民と敵対する勢力であり、レバノン軍による難民への拷問が深刻な状況です。

これを伝えてくれるジャーナリストはなかなかいませんが、レバノンでの支援活動は、他の周辺国と比べても難しいのです。

それもまた、アーサルへの支援を絶望的なものにしてしまっています。



支援が届かない人へ支援を届けることを考えるのが、緊急人道支援のプロ集団の仕事だと思っていました。

募金をする人達も、支援が届かない人達へ届けて欲しいと思っていることだと思います。

だけど現実は複雑な問題がたくさんあり、簡単なことではないようです。




それでも何とかならないかと、ずっと悩んでいました。







現在アーサルは安定してきており、現地団体(Shabab al ouma)の支援活動も再開しました。




そして、明るいニュースがあります。

アーサルで学校を支援するプロジェクトが始まりました。

Volunteer school for Syrian refugees




僕も実際に訪ねた学校ですが、先生はボランティアで、全く給料をもらっていません。

実は先生たちもシリア難民で、中には大学教授の方もいらっしゃいます。



学校の先生たちは、日本人の僕に、必死で支援のお願いをしていました。


ただ、印象的だったのは、自分たちの給料のことではなく、子ども達の教科書やペン、机や椅子が必要だということを訴えていたのです。



寝泊まりさせてもらっていたクリニックのドクターも同じことを言っていたのを覚えています。
彼は爆発のせいで指がありませんが、毎日200人ほどの診察を行っています。彼もシリア難民の1人です。

そして給料はもらっていませんが、薬や設備が必要なんだと訴えていたのです。
アーサルにいる難民を1人でも多く救うことが私の使命なんだとも語ってくれました。



そんな人達ばかりだったから、僕はアーサルのシリア難民のために何かしたいと今でも強く思っているのです。




これが学校へ行ったときの写真です。








生徒が800人もいる巨大な学校です。



設備があまりにも不十分なので、ホワイトボードや、机、椅子が必要です。


勉強するためのペンやノート、教科書が必要です。


これを1年分支援するのが、今回のプロジェクトです。

避難している期間、必要な教育を受けるためには、その環境が用意されなければならないのです。

避難生活によって生じる教育ブランクはシリアの未来をさらに暗くします。
もし紛争が終わっても、落ち着いた社会を取り戻すには、教育を必要とする期間に必要な教育を受けていることがとても重要なのです。





そして、女子生徒が安全に通学するための1年間分のバス代もこのプロジェクトで支援します。


願わくば、ボランティアの先生に少しでも給料を払いたいのです。







支援される学校は、一緒に働いた女子高校生達の通っている学校でもあります。






毎日誰かが泣いてしまって、慰めたりもしていましたが、基本的にはみんな元気で明るく、一緒に楽しい時間を過ごしました。



彼女たちのことをボランティアと呼ぶこともありますが、働いた分が少しだけ支払われます。


彼女たちはテントには住んでいませんが、シリア難民でもあります。


何度か別々の家庭に招待され、晩御飯をごちそうになることがありましたが、家は電気もなく、隙間風の入り込む中で細々と生活をしていました。

それでも家賃を支払わなければならないので、収入なしには長期の避難生活はできないのです。





このプロジェクトによって、彼女たちの通う学校が支援され、現地団体(Shabab al ouma)の活動としての恩恵を受けることを、心から嬉しく思うことができます。




こちらがプロジェクトページになります。


Volunteer school for Syrian refugees



£5でも£10でも結構です。少しでもいいので、支援してください。
信頼できる人達ががんばってやっています。よろしくお願いします。


僕は個人的に強い想いがあって、プロジェクトが立ち上がって直ぐに現在までの寄付者で最高額の£1,500(およそ28万円)を払いました。これまでの人生でも最も大きな寄付でした。

実は1500ユーロと勘違いしていて、1500ポンドだったのですが、全然後悔していません。

未来のあるシリアの子ども達のために、日本からの支援の道が開けたことが何より嬉しいです。

本当に、自分にとってどうしていいのか分からない問題で、ずっと悩んでいましたが、こうして支援をすることができてよかったと思います。



まだ必要な金額(£10,000)に届いていないので、皆さんの支援をよろしくお願いします。

フェイスブックやツイッターでプロジェクトページを紹介してくれるだけでも支援に繋がる可能性があるので、どうかよろしくお願いします。









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2014年10月7日火曜日

ハイチのテントキャンプ閉鎖と新しいチャレンジ

2013年6月2日、深夜4時。

長い間住んでいたダンダスウエスト駅前のコンドミニアム。

その横にあるバス停から、夜行バスに乗り込みました。乗客が多くて、重い荷物を気にしながら、立っていたことを覚えています。

空港では少し時間があったので、2年間生活したカナダでの思い出に浸ろうと思ったけれど、やめました。
起こりうるトラブルや、危険な状況に巻き込まれたときの、いくつものパターンを頭の中で繰り返すことにしました。


飛行機はモントリオールで乗り換えでした。
待っている人の中には白人の団体がいたけれど、ほとんどはアフリカ系の黒人とは違う、ハイチ人でした。スーツを着ている人もいれば、伝統衣装を着ている人もいました。
アジア人は、明らかに自分1人でした。

初めて国際線の飛行機に乗ったのは日本からカナダへの便だったので、これが人生で2回目の国際線での移動となったのです。

そして数時間後、ビルが見えない代わりに、美しい緑に囲まれたハイチの空港へと到着しました。
空港は既に蒸し暑さに包まれていたのを覚えています。


空港へクレムソンが迎えにくることになっており、すぐに見つけることができました。


荷物を運んでくれようとする人や、タクシードライバーや、よく分からない人達がたくさんいて、困惑しそうなところだったけれど、クレムソンとほとんど同時に、相手だと気が付きました。

こうして1ヶ月間のハイチ生活は始まりました。





別に何をやるって決めて行ったわけではありませんでした。

やれることは何でも全力でやります、ということで、寝泊まりする部屋とインターネット環境を用意してもらいました。




受け入れてくれたのは、Join The Journeyというアメリカの団体で、ハイチ人のクレムソンとジェームスが現地のコーディネートを行っているわけです。



2010年の地震以降、首都やその周辺にはテントキャンプが点在していて、団体はその中の1つ、シテソレイユにあるCapvvaで支援活動を行っていました。


シテソレイユは、街全体がスラム化していて、危険な場所だとも言われています。




ただ、Capvvaの住民はおとなしく、ときどき争い事は起きるけれど、一定の治安は保たれておりました。キャンプのリーダーたちの頑張りがあってのことです。



ハイチのテントキャンプ生活者にとっての脅威は、暑さ、不衛生さによる病気への感染や、略奪やレイプだけではありません。

頻繁に起きるスコールや、たまに直撃するハリケーンの被害に悩まされるのです。

政府の腐敗レベルは高く、失業率は80%とも言われている国ですので、テント生活者が困窮していることは言うまでもありません。

そして近年、私有地に作られたキャンプが強制的に撤去されるという事態が、あちこちで起きています。



Capvvaもその脅威に直面しており、団体は移転計画へ取り組んでいました。

さらに、テント生活者のうち、事業経験のあるものを対象にしたマイクロファイナンスによる自立支援を行ってきました。



こちらのお母さんは、Join The Journeyのマイクロローンでお店を始めました。かなり楽しそうに商売をしている姿がとても印象的でした。




こちらのお母さんはマイクロローンで支援を受け、ベッドの製作を行っています。










いろいろなお手伝いをさせていたきましたが、何よりも移転プロジェクトの前進に一生懸命取り組みました。


「強制退去」の問題は、ハイチに行く1年くらい前から知っていました。かなり時間をかけて調べていたこともあって、事情はよく分かっていました。





まずはCapvvaに何人、何世帯が住んでいるかを調べなくてはいけないと思い、パソコンで調査票を作り、全てのテントを訪ねて回りました。





これを徹夜で整理しました。







移転予定先の地主を訪ねたり、建設会社を当たったりもしました。




一か月はあっという間に過ぎました。



あれから1年が過ぎ、Capvvaは団体の計画に完全に沿って、というわけではありませんが、解体しました。

一部は移転予定先として決めていた地域へ移り、一部は都市部に部屋を借りるための支援を受けて、Capvvaを去ることになったのです。


















7月の後半、Capvvaは完全に閉鎖されました。
残ったのは、学校や集会所として使われていた建物だけです。







2010年1月の地震から4年半。

長い長いテント生活、お疲れ様でした。






Join The Journeyの次の挑戦


そして、Join the Journeyは次の活動を始めました。





首都ポルトーフランスから車で1時間ほど北へ行ったところにある「Zoranger」という農村部で、持続可能な農業の開発に取り組みます。












地域の識字率向上にも取り組んでいくということです。
クレムソンもマネージャーとして参加しています。


今後も、お世話になったJoin the Journeyの活動を応援していきます。


















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2014年9月28日日曜日

ダーウィンの悪夢

週末、TSUTAYAで「ダーウィンの悪夢」- Darwin's Nightmareを借りて見ていました。



舞台はタンザニア。
世界で2番目に大きい湖として知られる「ビクトリア湖」周辺で、元々、湖には生息していなかった「ナイルパーチ」という外来種の巨大魚を、海外へ売ることで漁業や魚の加工業は成長し、多くの雇用を生み出した。

その一方で、所得格差を生み、ストリートチルドレン、売春、HIVの蔓延などの悲劇を助長していることや、生態系の破壊を伝えるドキュメンタリー映画です。


ヨーロッパからやってくる飛行機は、ナイルパーチを積んで帰っていきますが、来るときは一体何を持ってくるのか。

コンゴやアンゴラの紛争で使用される武器を運んでいた可能性についても証言されています。




貧困は様々な要因があって生じるので、全てをナイルパーチと結びつけるのは少し強引だけれど、「経済成長」「雇用創出」のポジティブな側面だけを抜き取って評価されてしまいがちな、途上国への開発支援や、商取引の拡大の裏では、悲しい現実を生み出していることも事実なのです。



加工されたナイルパーチを輸入したい国は、自分の国で生産するよりも安いから輸入するのです。

ですが、現地の人にとっては高くて食べることができません。




虫の集った魚の頭部や骨を拾っている貧困層の人々の姿はとても衝撃的なものでした。





ちなみに日本もまた、タンザニア産ナイルパーチを輸入している国の1つです。





「アフリカはなぜ貧しいの?」という問いは随分と的外れでありますが、同じ東アフリカでもケニア、エチオピア、ソマリア、タンザニアなどのそれぞれの国の社会問題の背景は異なるのですね。


背景を細かく分けると違いますが、ストリートチルドレン、売春、HIVの蔓延という貧困の症状は、都市部によく見られるものです。


また、出稼ぎに出た夫や身内を失ったことによる家計の圧迫は農村部も巻き込みます。


出稼ぎ先での死因は、労働環境の悪さや危険を伴う作業によるものと、HIV感染が一般的に上げられます。


この構図は他の国にも当てはまります。




開発のスピードと、生じてくる格差と、広がっていく格差の中で、「痛み」が症状として現れます。




なので、都市部の貧困層は、開発が遅れていることによるわけではなく、開発によって生まれてくるわけなのです。




発展のスピードと国内での地域のバランスを取らなければなりません。


この舵取りを担うのは、その国の政府です。




しかし、先進国と途上国の政府の間には力の差が存在します。

これは技術援助やODAによる開発援助で債務を抱えていたり、輸出国輸入国間にある力関係に起因していたりします。


元々の政治機能の脆弱さに加え、力の差のある相手国からの多額の資金流入は、この舵取りをうまくいかせないのです。






日本も過去の東南アジアへの開発援助では、フィリピンやインドネシアなどで農業改革を行い、雇用創出や食糧自給率上げてきたことで一定の評価を受けていますが、格差と貧困を生み、争いの原因を作り出したとの批判もあります。


それにより日本は農作物を安価で輸入できるようになったのです。そして最大の輸出先となったのです。




古くからの歴史をたどると、食糧を生産すること以外に使うことのできる労力によって、文明は発達してきました。



日本は食糧を輸入に頼っているというよりも、より付加価値の高い工業製品などを輸出するために、食糧を安く調達する手段を選択しているように思います。


援助というのは、そのための戦略で用いられたり、批判を生まないための緩衝材のような役割を果たすのです。



純粋に人助けの精神で国家間の援助が行われることはまずありえないのです。



▼アパルトヘイト政策に対して国際社会が南アフリカに経済制裁を発動させる中、日本は取引を続けた。現地の人が飢餓に喘いでいる中、輸入したトウモロコシなどは豚の餌に。

アパルトヘイトと日本の罪






開発援助の光の部分を誇張するだけではなく、影の部分にしっかり目を向ける姿勢が必要だと思います。






開発援助の光と影―援助する側・される側 (全集 世界の食料世界の農村)










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2014年9月23日火曜日

アーサルのシリア難民を襲う拷問


2014年1月、エチオピアのホテルに泥棒が入り、パソコン、カメラなど、活動のために必要な道具を失ってしまった。




ハイチ、コロンビア、ブラジル、南アフリカ、ジンバブエ、ケニア、エチオピアへ、それぞれ30日~50日滞在し、いつも飛行機で移動してきた。


その時はもう、バイトで貯めた活動資金もほとんど残ってなかった。




いろいろ考えた末、帰国を考えることにしました。





だけどどういうわけか、中東へ行かなければならないような気持ちになったのです。





冷静さはありました。

同時に、直感と運命を強く信じながら行先を決めてきたのです。



いつの間にかそうしていたのではなく、アフリカ滞在中に、そういう考え方が育ってきたのだと思います。


そういう人達との出会いが多かったからだと思っています。











貧困と民主主義。都市部と農村部の圧倒的な違い。支援とは。

いろいろなことを学んだエチオピア。



雨が降りにくいために、頻繁に飢饉が起きるエチオピア。




最終日、空港へ向かうとき、

この国に来て初めての雨が降っていた。


1月30日。母さんの命日だな。

そんなことを思い出した。









エチオピアのアジスアババから、レバノンのベイルートへと向かった。




テーマは最初から決まっていた。


「シリア難民問題」









日本のNGO/NPOのシリア難民支援のほとんどは、ヨルダンのザータリキャンプでの活動です。

そして、イラクとシリア国内。

国際機関も、メディアも、どういうわけかレバノンのシリア難民の優先順位を低く扱っているようでもあります。








実はレバノンは100万人以上(国外最大)のシリア難民が逃れてきています。



なぜ、レバノンを選んだのか。

直感でした。






けれどもここで、素晴らしい出会いをしました。

そして、悲惨な光景も目にしました。


今思えば、シリア難民の皆さんのために、いろんな国でのいろんな経験が、自分を成長させてくれていたかのようにも思っています。













ベイルートに到着後、最初はカウチサーフィンで知り合ったレバノン人歌手の家に泊めてもらいました。


同じ家には、Global Postのジャーナリスト、トレイシー・シェルトンという女性も住んでいました。



日本語に訳された記事もいくつかあります。

ニセ残虐画像がもたらす果てしない混乱


トレイシーは中東の紛争取材の超ベテラン。

彼女が撮影したこの写真はまさに紛争の最前線の様子。
Life and Death in Aleppo



一緒に食事をしながら、ジャーナリズムについてや、シリアの状況、そして危機管理についてなど、いろいろと聞くことができました。



リビアのホテルで拘束され、窓から逃げた時の話は今でもよく覚えています。







そして、支援団体への接触を始めました。



首都ベイルートに拠点を持ち、難民キャンプで活動をしている団体を探しました。

オフィスを訪ねて、あっさりとキャンプ地まで行く日程が決まりました。



受け入れてくれたのはLebanese for Syrian Refugeesという団体の代表キャロル。

以前はアルジャジーラ(英語版)に勤めており、今もイラク、シリア、レバノン、トルコへ自ら足を運んで、ジャーナリストとしての仕事と、支援活動を行っているのです。





最近キャロルがテレビ出演したときの様子。








団体は週末にベイルートから、シリアとの国境地域のアーサルへと支援物資などを届けに行きます。

現地の組織と協力しながら、物資の保管と分配などを行います。

診療所へ薬を届けてもいます。





最初の週末にアーサルへ日帰りで訪ねました。

ちょうど、難民を受け入れるためのキャンプが完成間近でした。









まだ、シリア人の職人さんが最終仕上げを行っている途中でした。






次の週末に再びアーサルへ行き、2週間、滞在しました。



行くことも簡単ではなく、数か所の軍の検問で長いときは30分以上止められます。





クリニックで寝泊まりしながら、毎日キャンプへ行って、新しい入居者への物資の配達を行いました。



別の新しいキャンプの建設も一緒に行いました。





アーサルに滞在中、トレイシーを呼び込んで、伝えていただきました。

http://www.globalpost.com/dispatch/news/regions/middle-east/140317/meet-the-syrians-who-fled-yabroud-and-are-afraid-give-the-u












2週間の滞在中、心細く思ったことはありません。


いつも誰かが家に招待してくれていました。


テントに招かれては、マッテ(甘いお茶)やひまわりの種を食べさせていただいていました。


診療所ではドクターが無給で、朝から晩まで働き、


学校でも粗悪な環境の中、ボランティアの先生が授業を行っていました。


みんなシリアの人達です。




みんな親切で、暖かい人たちでした。




こんなに悲惨な状況下で、この人たちは何て美しい心を持っているのかと、感動させられたのです。







アーサルが今、緊急事態です。






8月は5日間、戦闘が勃発し、その間に多くの難民キャンプが焼き払われました。


拷問もありました。

先月は100人以上が殺されたと、ドクターが教えてくれました。



3日前には、6発のミサイルが着弾しました。

http://www.aljazeera.com/news/middleeast/2014/09/lebanon-arsal-syrian-rebels-201492295223327962.html


ヒズボラの検問所に自爆攻撃も起きています。




スンニ派と敵対関係のヒズボラが政治的権力を持っており、レバノン軍もほぼ、その支配下にあります。




これは、レバノン軍によるシリア人への拷問の様子です。











働くことも規制され、貧困の真っ只中に置かれているということです。



8月、ほとんどのキャンプが燃やされた中で、毎日通ったキャンプは、燃やされていないという情報はもらいましたが、キャンプのある地域へは立ち入りができなくなっています。





キャンプの子供たち


ドクターモスタファ

ボランティアの女の子たち


一緒にテントを建てた仲間たち


マホムード




現地の人達とやりとりしておりますが、いよいよ切羽詰まった状況が伺い知れます。








これは本当の話です。


レバノン軍を支援して、テロ対策を強化することで、アーサルに住む難民の皆さんは救われません。

http://japanese.cri.cn/881/2014/08/27/201s225703.htm


「軍を支援する」なんていう選択は、ありえないのです。




確かにシリア難民の中に自由シリア軍の兵士もいます。


打たれたばかりで、治療も受けられないままテントで横たわっている青年にも会いました。


だけど、レバノンで戦闘をする意思なんてない。




レバノン軍がシリア難民を責め上げれば、仕返しのようなことも起きる。





レバノンが紛争地化すれば、100万人を超えるシリア難民に未来はないんです。


これまで届いていたところにも支援は届かなくなる。


ヒズボラを相手にすれば、中東情勢のさらなる泥沼化は避けれれない。









燃やされたキャンプ




人権団体、国際NGO、メディアの方々、本当に伝えないといけないのは、誰も伝えてくれない、アーサルで起きている紛争、貧困、人権侵害じゃありませんか。





国連高等弁務官事務所(UNHCR)にも電話してみたんです。



どの程度、情報を把握しているのかも、教えてもらえず、「寄付」という選択肢を紹介されました。





UNHCRのロゴが入ったテントは見たけど、アーサルでは誰も活動していないじゃありませんか。


そもそも、アーサルにいるシリア難民の人達は、難民登録されていない人達も多くいるのです。


ヒズボラの検問所をどうやって抜けていって、難民登録するんですか。











薬、服、食糧、子供用のミルク、お金。

緊急で、必要だということです。


助けてくれ、と言われたら、やるしかありません。



だけども私にできることの選択肢はあまりありません。



薬、服、食糧、子ども用のミルク、お金を、少しでも多く現地に届けたいと思います。









自分で50万円くらい貯めておこうと思っていますが、話を聞いた感じだと足りなさそうなので、募金をお願いするかもしれません。

服を送ってくれる人も大歓迎です。
アーサルは本当に寒くて雪が降りますので、暖かい冬服は有難いです。



必要な薬はドクターに聞いてみます。











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