2014年7月21日月曜日

【恐怖】農村部という概念が消える日


僕は今、福島県内で働いておりまして、地元のテレビでは復興関係のことが取り扱われているものを目にすることが多いのですが、とある村の村長さんの話で、


「3年前には戻らないと思う」



「昔に戻るのではなく、新しい村づくりをやっていく」


ということを語っておられました。



そして、専門家の人は、


「循環と持続の仕組みを確立し、そこで生活が成り立つこと」が必要だと、言っておられました。



これを見て思ったのです。

思ったというか、気付いたのです。


日本の農村部とアフリカの農村部の決定的な違いを。

そして我々が失ったものを。





どういうことか説明します。



実を言うと自分も、アフリカのリアルな農村部を見るまでは、「農村部」というのはどういうものなのかを知りませんでした。


「都会」ではない「田舎」のようなイメージを持っていましたが、それは全く違っていました。


僕が行ってきたアフリカの田舎というのは、ジンバブエ北部の山「マウントダーウィン」にある孤児院。それからエチオピアの首都アジスアババからバスで8時間ほど行ったところにある集落。


マウントダーウィン(ジンバブエ)










辺り一面を緑に囲まれ、石と藁の家々が集落を作り、鳥が鳴き、小川が流れ、牛の鳴き声を掻き消すような雑音はどこにもない。


のどかで、「平和」を絵に描いたような場所でした。



のどかで平和なのは福島の村も一緒ですが、アフリカの農村部では、循環や持続を確立させて、そこに生活を成り立たせなければならない、というような課題を抱えているようには思えません。



農村部での生活が成り立たなくなってきているのは、アフリカよりも日本です。



それは、日本の農村部は、都会と同じく文明が発展した水準にあり、人々はそれを手放すことができないからです。つまりいくら田舎だからと言っても、お金がないと生きていくことができないのです。自然に成立したはずの循環と持続の歯車が狂い、循環させるためのパイプのつなぎ方がいささか複雑なものになってしまっているのです。



一方、産業革命が起きる前の人類の最もスタンダードな暮らしをしているアフリカの農村部では、干ばつなどの災害を除けば、自給自足で不自由のない暮らしができるのです。



電気もなく、木を切って火を起こし、毎日同じようなものを食べる。
おいしくもないけど、まずくもない。



基本的には水は汲みにいかなければならない。



僕はアフリカの農村部で気付きました。


水準が低いと言われている暮らしが苦しいのは先進国の人間だけだって。


食べ物が質素なことも、電気がないことも、誰も辛いなんて思ってやしません。



むしろ、火を囲んで、今日の出来事なんかを話して笑っている姿は、世界の中で最も美しい人間の姿を見たような気がしました。





さっき、アフリカの農村部では自然に循環と持続が成り立っていて、そこで暮らしていくことに何の問題もないと書きましたが、実は少しずつ蝕まれてきているのです。


農村部にも教育や医療が入ってくるようになり、一定の恩恵を受けることもありますが、交通網が整備され始めると、貨幣経済というこれまでになかった価値観が持ち込まれることになります。


コミュニティ間の行き来も容易になり、中継地点は都市化が進みます。


やがて好奇心旺盛な若者は村を離れ、都市部へ移るようになります。お金を得るために。



そうして都市部の暮らしに馴染んでくると、生まれ育った農村部の暮らしを「不便」、「遅れている」「物がない」などと、ネガティブな捉え方をしてしまうようになるのです。


その頃には農村部の暮らしがどれほど素晴らしいかということなんて、忘れてしまっています。


農村部の暮らしの水準を上げなきゃいけない。
かわいそうだ。
貧困だ。
人権侵害だ。



というような考え方まで生まれ、今度は村を発展させようという動きが起きてきます。

その動きを放置した結果、

農地や家畜は残り、一見のどかで平和な状態は保っていますが、すでに貨幣経済に依存した、複雑な循環と持続の土俵に乗せられてしまうのです。



そして、無かったはずの課題を抱え、農村部の本来の良さを失ってしまうのです。


それが今の先進国型の農村部の姿です。





世界で最も美しい人間の姿。


幸せそのものが滲み出ていたジンバブエやエチオピアの農村部の暮らし。


自分でもまさか世界で最も文明の発展していない地域で、最も豊かな人間の姿を感じることになるなんて想像もしていなかった。



これが消えてしまうことは、人類にとって不幸なことです。



僕自身も現場感覚があってこの話が初めてできているわけです。

だから言っている意味を分かってくれる人は少ないかもしれません。


なぜなら我々は既に、喜怒哀楽をお金で買っているから。

そしてそれが正しいことで、どうしようもないことだと思い込んでしまっているから。




社会がこのまま進んでいくと、いつかエチオピアからもジンバブエからも、お金もモノもなくても、幸せいっぱいの心、卓越した想像力と表現力で、回りをも心豊かにしてくれる、そんな真に豊かな人間の姿は消える。



一生懸命働けば、豊かになる。
会社の売り上げが上がれば、豊かになる。
GDPが上がれば、社会はもっと良くなる。


なかなか気付かないけれど、そう信じて失ったものの巨大さに想像力を働かさなければいけないように思うんです。


将来はもう農業なんて成り立たなくなってしまって、人工牛肉、人工フルーツジュース、あるいは錠剤タイプのカロリー吸収剤で、いくら働いても疲れなくなって、仕事中でもボタン一つで家族と無機質なコミュニケーションをとって、

便利になったなー、幸せだなーって。


もう食事なんか取らずに、腰のあたりにプラグを挿して、充電するタイプの人間が主流になってるかも。


農作物なんて作る必要がないんだ。


良質な洗脳プログラムで、意見の食い違いなんて起こらない。


これじゃぁGDPを上げるためのロボットみたいじゃないかって、気付いたときにはもう遅い。


だって、ロボットを300万台作るよりも、1億人をロボットにした方が安いんだから。



ちょっと想像力が働きすぎたけれど、
どこかで、何かのキッカケで社会にブレーキがかからないと、農村部という概念そのものすら消えて、消えた後は誰も何も知らなくなる。



そしてそれはきっと人類にとって良くないことだというのが僕の意見です。








ジンバブエ農村部の孤児院、エチオピアの集落へ行きたいという方は連絡をください。紹介します。










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